点评:日本人で赤穂と聞くと「赤穂浪士」や「忠臣蔵」のイメージが圧倒的に強いかと思います。
そして、その中心的人物である大石内蔵助の像が駅前に佇んでいます。
「忠臣蔵」が人気になった要因は1701年に起きた浅野長矩と吉良義央の刃傷沙汰とその後の流れを1748年に大阪で人形浄瑠璃で上演されたことで、かなり知名度を上げたようです。
娯楽が現代より少なかった当時、仇討ちと忠臣の話は庶民を喜ばせましたがストーリー的には脚色もされている様です。
「忠臣蔵」の話には色々なポイントがあるのですが、個人的に気になるのは内蔵助が動く以前の「そもそもの2つの部分」です。
1つ目は「浅野長矩はなぜ失敗したか?」という点です。
当時、吉良氏は61歳で浅野氏は35歳であり、体力的な優位性があった点と一方的な殺意なので不意打ちの先手を浅野氏は繰り出せたのです。
それが、叫びながら斬りかかり、眉間と背中を切りつけるも打ち漏らして軽症という結果となります。
下手に声を出したりせず、まず小刀で刺すとか切るとかで致命傷を負わせた上で恨みつらみを述べれば良いかと。。。
名誉を重んじて不意打ちよりは声掛けしてから・・・と考えたのでしょうか。
それでも相手が武器を取る前に切り付けてるので、一騎打ちという訳でもなく大差無い様に思えます。
2つ目は時の将軍である5代目綱吉の裁きです。
この時、綱吉は即日切腹を浅野氏に言い渡し、当日に浅野氏は切腹します。
結果として事の原因が闇の中となり、未だに推測の域で「塩の利権説」や「吉良氏の嫌がらせ説」などが語られています。
江戸城では9件の刃傷沙汰があったと言われており、この件以外は「喧嘩両成敗」を基準として時間を掛けて裁きを下しています。
仮に吉良氏が死亡していたのであれば「喧嘩両成敗」として問答無用で浅野氏も切腹でも良いと思うのですが、軽症で討ち損じているので両者の言い分をしっかり聞いた上で手順をしっかり踏んで処罰(領地没収、家名断絶)としていたら赤穂藩士たちも討ち入りという過激な行動には出なかったと思われます。
12月になると毎年「忠臣蔵」がテレビで放送されます。
赤穂市では盛り上がって視るかと思いますが、吉良氏の地元の西尾市の住民の気持ちを思うと複雑でもあります。。。
翻译:对日本人来说,“赤穗”这个名字几乎与“赤穗老师”和《忠臣藏》紧密相连。
故事中的主人公大石藏之助的雕像就矗立在车站前。
1748年,大阪上演了一场木偶戏,生动地展现了1701年浅野长则与吉良义仲的剑术对决及其后续事件,这似乎极大地提升了《忠臣藏》的知名度。
在那个娱乐活动远不如今日丰富的年代,复仇和忠臣的故事深受百姓喜爱,尽管故事本身似乎经过了艺术加工。
《忠臣藏》的故事有很多值得探讨之处,但我个人认为藏之助行动之前的两个方面尤其引人入胜。
第一个问题是:“浅野长则为何失败?”
当时,吉良61岁,浅野35岁,浅野在体格上占优。此外,浅野的杀意是单方面的,这使他能够发动突袭。
他一边喊叫一边攻击,砍向吉良的额头和背部,但都落空了,只造成了轻微的伤势。
或许,与其喊叫,不如先用匕首造成致命一击,然后再表达不满。
或许他重视荣誉,认为在发动突袭前先喊叫一番更好?
即便如此,由于他是在对手拔出武器之前就发动了攻击,这似乎并非一场一对一的决斗,结果也似乎相差无几。
第二个案例涉及第五代将军纲吉的判决。
当时,纲吉下令浅野立即切腹自尽,浅野当天便切腹自尽。
因此,事件起因至今仍是个谜,各种猜测层出不穷,例如“盐权论”和“吉良家骚扰论”等。
据说江户城内曾发生过九起刀战,其余案件均遵循“双方均罚”的原则,并经过一段时间的审理后作出判决。
如果吉良身亡,我认为双方均应受到同等惩罚,浅野理应切腹自尽。然而,由于吉良仅受轻伤且未遂,如果双方都得到认真听取,并按照正当程序(没收领地、绝嗣)进行惩罚,赤穗武士或许就不会采取如此极端的行动,例如突袭。
每年十二月,《忠臣藏》都会在电视上播出。
我猜想这在赤穗市是一部很受欢迎且令人兴奋的电影,但我对基拉的家乡西尾市居民的感受却有些复杂。