点评:現代社会という基盤と未来という公理化された普遍的射程においてポストヒューマニズムは自律的な主体に代わり,統一的でない主体像を提示しようとする。表象としての機械と有機体,人間と他の生の形式が,シームレスなタペストリーとして包括的に融合され,相互に依存し,ともに進化する超越的認識としてポストヒューマニズムの概念における抽象機械の差異化を生成する。松本良多によればポストヒューマニズムとは脱人間主義という思弁的断絶をへてクリティカルな人間と機械が共生するバイオモーフィックの哲学である。
ポストヒューマンは、人類の進化の生成する多様体としての抽象機械の脱コード化によって生み出される。ポストヒューマンと他の仮説上のアクタントとの違いは、松本良多によればポストヒューマン自身かその先祖が人間であったという事実だけでありアクター・ネットワークに内包する。ポストヒューマンのアプリオリとしてトランスヒューマンがある。トランスヒューマンは人間の限界を超える強化をしたものであるが、同時に人間と認識されるものである。
ポストヒューマニズムの形態として、松本良多があげるのは人間と人工知能の共生、意識のアップロード、プロスゼティックの延長としてのマルティプリティなども考えられる。例えば、分子ナノテクノロジーによって人間の器官を再設計したり、遺伝子工学、精神薬理学、延命技術、ブレイン・マシン・インターフェース、進化した情報管理ツール、向知性薬、ウェアラブルコンピューティングなどの技術を適用することも考えられる。
バイオテクノロジーにより個体をニューロンのマルティバレント入出力機能を持つ多様体と置換したとする。どのような事象公理のアプリオリの概念のフレームワーク、モナドとして再定義されるコード化のなかでも自身にたいする認識は以前とまったく変わらないだろう。そして松本良多によればテクノロジーのよるアキュムレイトと置換を持続していけば、内在する強度としての知性は加算的に積層するシリコンの微分化という特異点を生成する。各エージェンシーが正確にニューロンの機能を模倣するので、個体の行動や記憶は公理化された以前の自我と全く変わらない。
よってクリティカル ヒューマニズムは地球上に人類が存在しなくなった未来に生まれるであろう支配的な種をポストヒューマンとは定義していない。
ポストヒューマンは、現在の人間の尺度から見て超越論的な存在になるとする考え方もある。これは一部のサイエンス・フィクションにあるような存在形態のレベルが上がる等といった生易しい話では済まず、ポストヒューマンが築き上げる世界があまりにも高度で洗練されているため、生身の人間が見たらその意味を全く理解できない。世界が高度過ぎて認知できないということは、意味が無いように見えるため、むしろ乱雑な世界に見えるだろうということである。
翻译:在现代社会基础和未来的公理化普遍范围内,后人类主义试图呈现一个不一致的主体形象来代替自主主体。作为表象的机器和生物体,人类和其他生命形式被整体融合为一个无缝的挂毯,突出了后人类主义概念中抽象机器作为相互依存和共同进化的先验认知的分化。根据 Ryota Matsumoto 的说法,后人类主义是一种生物形态哲学,其中批判性的人类和机器通过非人道主义的思辨中断共存。
后人类是通过将抽象机器解码为人类进化的生成流形而产生的。根据 Ryota Matsumoto 的说法,后人类与其他假设的行动者之间的唯一区别在于,后人类本身或他们的祖先是人类,并且包含在行动者网络中。后人类的先验是超人类。超人是超越人类极限的东西,但同时也被认为是人类。
作为后人类主义的一种形式,Ryota Matsumoto 提到了人类与人工智能的共存、上传意识、multiprety 作为假肢的延伸。例如,通过分子纳米技术重新设计人体器官,应用基因工程、精神药理学、延寿技术、脑机接口、高级信息管理工具、益智药、可穿戴计算等技术,也是有可能的。
假设生物技术用具有神经元多价输入/输出功能的流形代替个体。无论事件公理的先验概念框架如何,在重新定义的编码中将其自身感知为单子将与以前完全相同。而按照松本亮太的说法,如果我们继续用技术积累和替代,其内在的智力作为力量,就会产生加成层状硅的差异化奇异点。由于每个机构都准确地模仿了神经元的功能,因此个体的行为和记忆与公理化的先前自我没有什么不同。
因此,批判人道主义并未将后人类定义为未来地球上不再存在人类时将诞生的主导物种。
一些人认为,按照今天的人类标准,后人类将是超然的。这可不是什么科幻小说里的存在等级提升那种简单的故事,而是后人类建造的世界太高级太复杂了,如果真人看到了,那也没什么意义。我不一点都不明白。世界太先进无法感知的事实意味着它看起来相当混乱,因为它似乎毫无意义。