点评:港区赤坂六丁目にある「赤坂氷川神社」についての情報を発信していきます。今回、「赤坂氷川神社」を訪れたのは2023年12月27日です。「赤坂氷川神社」へは、東京メトロ南北線「六本木一丁目駅」が最寄り駅ですが、今回は、「赤坂氷川神社」と忠臣蔵で有名な「南部坂」を途中で見ることを予定していたので、都営大江戸線「六本木駅」を利用しました。東京メトロ日比谷線・都営大江戸線「六本木駅」の6番出口を出て、左方向に350mほど道なりに進むと突き当りになります。途中の左手に「檜町公園」があります。突き当りを左折100mほど進むとまた突き当りになります。そこを左折し、250mほど進むと左手に「赤坂氷川神社」の入口があります。
「赤坂氷川神社」は、港区赤坂にある「氷川神社」で、大都会の赤坂にありながら、江戸時代の面影を残しています。例えば、江戸の年号が刻まれた石碑、灯籠、7対の狛犬と歴史を感じさせる遺産など、江戸時代の歴史が感じられる境内が残っています。「赤坂氷川神社」の歴史と概要を紐解いてみると、「赤坂氷川神社」の創建年代は不詳ですが、天暦5年(951年)に東国を遊行していた「蓮林僧正」が、現在の赤坂4丁目付近の「一ツ木村」で一夜を明かすと夢の中で御祭神のお告げがあり、この地に「氷川明神」の「社殿」を建てお祀りをしたことにはじまります。また、100年後の治暦2年(1066年)の夏の、関東一円を襲った大旱魃があり、苦しむ村人たちが「氷川明神」に雨乞いの祈願をするとたちまち雨が降りはじめたという話も残っています。そして、江戸時代には第8代将軍「徳川吉宗」から篤い崇敬を受け、以後は徳川将軍家より庇護されました。「徳川吉宗」の命によって造営された社殿が現存しています。歴史を振り返ってみれば、現在までに「安政の大地震」、「関東大震災」、「東京大空襲」などがあったにもかかわらず、それらの被災を免れているのは奇跡的とも言えるのではないでしょうか。「氷川」の名称の由来は、出雲国「簸川」(現在の島根県斐伊川)にあるとされ、「簸川」の上流は御祭神「素盞嗚尊」の「八岐大蛇退治」の舞台と伝えられています。
《「赤坂氷川神社」のお薦め参拝巡路》
①「力石」⇒②「大銀杏」⇒③「包丁塚」⇒④「九神社」⇒⑤「山口稲荷」⇒⑥「桶新稲荷」⇒
⑦4基の「石灯籠」⇒⑧「社殿」⇒⑨「縁結ひ」⇒⑩「山車展示場」⇒⑪「四合稲荷」⇒⑫「西行稲荷」⇒
⑬「太鼓橋」⇒⑭「苗村翁頌徳碑」
それでは、早速「赤坂氷川神社」の境内に足を踏み入れます。「赤坂氷川神社」には、南側と東側に二つの「一の鳥居」があります。江戸時代には、東側の「一の鳥居」から入るのが正式なルートであったそうですが、現在では、南側の「一の鳥居」から入るのが一般的というらしいです。赤坂方面から来ると東側の「一の鳥居」が近く、六本木方面からは南側の「一の鳥居」が最寄りとなります。私は、都営大江戸線「六本木駅」を利用したので、南側の「一の鳥居」をくぐりました。
《「力石」》
「一の鳥居」をくぐると右手に「港区立氷川神社遊び場」があり、左手に「力石」があります。江戸時代から明治時代まで鍛錬や娯楽として「力石」を用いた力試しが盛んに行われたといわれています。境内の土中から発見された力石には「三拾五貫目」(約130kg)と刻まれていました。「力石」は、平成7年(1995年)3月27日に港区登録有形民俗文化財に指定されました。
《「大銀杏」と「包丁塚」》
「一の鳥居」の参道を進むと、右手の緑地に「大銀杏」と「包丁塚」があります。「赤坂氷川神社」の「大銀杏」は推定樹齢400年で、幹の周囲は約7.5mにもなります。「社殿」が現在の地に建立された享保15年(1730年)には、すでに100年を超える樹齢をであったと考えられています。そして、裏から見るとかなりダメージを負っていますが、これは昭和20年(1945年)の東京大空襲によるものです。平成6年(1994年)に港区天然記念物に指定されました。
「包丁塚」とは、料理人の使い古した包丁を納め、その恩恵に感謝するとともに、調理した動物や魚の霊を慰めるものです。境内の「包丁塚」は、赤坂青山料飲組合が使わなくなった包丁を奉納したもので、昭和49年(1974年)11月に赤坂青山料飲組合によって建立されました。傍らの左側には、「包丁塚30周年記念」の碑も建てられています。
《「九神社」》
「一の鳥居」の参道に戻り、少し進むと左手に「九神社」があります。「九神社」は、かつて境内の各所に鎮座していた「天祖神社」、「春日神社」、「鹿島神社」、「八幡神社」、「諏訪神社」、「秋葉神社」、「厳島神社」、「金刀比羅神社」、「塞神社」の9社を合祀した神社です。それぞれの神社への遥拝所として役割がありました。戦前は仲ノ町小学校(現在の赤坂小学校)に鎮座していましたが、戦後に「赤坂氷川神社」の境内に遷座されました。
《「山口稲荷」と「桶新稲荷」》
「三の鳥居」の手前の道を左方向進むと「社殿」の左側に、「山口稲荷」と「桶新稲荷」があります。
「山口稲荷」は、終戦後、赤坂3丁目にあった山口邸から遷された神社です。鳥居には享保3年(1718年)銘があり、向かって右側の水盤には文化10年(1813年)、左側の水盤には嘉永4年(1851年)、狛犬の台座には文政8年(1825年)の文字が刻まれていています。
「桶新稲荷」は「社殿」の左手の「山口稲荷」の先にあります。「稲荷社」の主祭神である「宇迦之御魂」は稲の神で、古来は農業神として信仰をされてきました。時代が下り産業が発展すると、「稲荷神」の神格は諸産業の守護神として拡大しました。江戸時代、江戸市中では稲荷神の勧請が盛んに行われたようです。赤坂5丁目の「桶屋」の稲荷もそのうちの一社で、戦後「赤坂氷川神社」に遷されたと伝えられています。
《4基の「石灯籠」》
「三の鳥居」まで戻り、さらに先に進むと「手水舎」があり、「楼門」の両側には、平成7年(1995年)3月27日に港区の登録有形文化財に指定された4基の「石灯籠」があります。「楼門」前に安置されている灯籠は、遷座を担当していた老中「水野忠之」が「社殿」の完成を記念して奉納したものです。
《社殿》
「社殿」は、享保15年(1730年)に八代将軍「徳川吉宗」の命より建立されました。この「社殿」は、「本殿」、「幣殿」、「拝殿」の三つの建物が一体となった、いわゆる権現造りの形式です。当時は幕府による倹約政策が進められていたため、「社殿」には質実かつ簡素な気風が表れています。通常は将軍の寄進するような社寺であれば、軒下の組物を何重にも重ねたり、彫刻や彩色などで飾り立てたりするのですが、この「社殿」の組物は簡素で、彫刻も目立ちません。ただ、将軍の寄進だけあって、大きな「雲形組物」や「吹寄せ垂木」など重厚な意匠を取り入れる工夫もなされています。昭和51年(1976年) 7月1日に東京都の有形文化財(建築物)に指定されています。
《縁結ひ》
縁結びにまつわる「縁結ひ」は、「楼門」をくぐってすぐ左手にあります。実は、「宮神輿庫」になっていた一画でしたが、「山車庫」が完成したため令和5年(2023年)に再整備して、縁結び祈願の「縁結ひ」となりました。日本には願いをしたためた紙を社寺の格子に結い、縁結びを願う風習がありました。「赤坂氷川神社」ではこの風習にちなみ、季節の和紙に願い事を書き、その成就を祈る「縁結ひ」を行っています。季節の色の和紙を結い願い事の成就を祈るそうです。
《山車展示場》
「社殿」の右手には、「山車展示場」があります。「山車展示場」では、全国的にも貴重な「江戸型山車」を展示しています。「山車展示場」は、以前駐車場だった一画で、駐車場が別に整備され、令和3年(2021年)9月に「山車展示場」が完成しました。展示されている山車は、全国的にも珍しい「三層型」構造で、高さは7mほどあります。江戸一番の祭は「山王日枝」、「神田明神」の天下祭でしたが、最盛期の「赤坂氷川祭」はそれに次ぐ規模だったそうです。「山車」は、徳川将軍も観るので、江戸城内まで挽き回しがされ、その際、城門をくぐすために最上部の人形が上下するカラクリを備えていました。それが江戸型山車の最大の特徴だそうです。ちなみに、右側の「山車」は「猿」で弘化2年(1845年)に制作されたものです。左側の「山車」は「頼義」で弘化三年(1846)に松雲斎徳山によって製作されました。
《「四合稲荷」》
次は、「四合稲荷」です。「二の鳥居」をくぐり石段を降りると左手に「四合稲荷」と「西行稲荷」が並ぶようにして建っています。「四合稲荷」の名前の由来は、明治31年(1898年)に「赤坂氷川神社」の近くにあった「古呂故稲荷」、「地頭稲荷」、「本氷川稲荷」、「玉川稲荷」の4社を合祀したことに由来します。また、「赤坂氷川神社」の周辺には勝海舟の屋敷跡や住んでいた跡があります。そして、「勝海舟」により「四社を合祀」、幸福の「しあわせ」、「志を合わせる」をかけ、「四合稲荷」と命名されました。その後、大正14年(1925年)に「鈴降稲荷」と「縁起稲荷」を合祀し、さらに昭和9年(1934年)に「明徳稲荷」を合祀しています。
《西行稲荷》
「四合稲荷」の奥にあるのが「西行稲荷」です。「西行稲荷」は、文政年間の文政8年(1825年)から文政11年の間に調査された「町方書上」のによると、もともとは赤坂田町4丁目にあったようです。町内自身番屋敷地内にあった祠堂で本社は6尺に7尺5寸、拝殿2間4方で前方に3尺に6尺の向拝があったそうです。同5丁目に住んでいた「西行五兵衛」という男が、甲冑を身にまとい、弓矢を携えて狐に乗った姿の鉄の像を拾い、御神体として安置したことが創建の由来と伝えられ、別名「火伏の稲荷」として信仰されてきました。火災除の御神徳があるといわれています。そして、「西行稲荷」は、大正10年(1921年)9月「赤坂氷川神社」境内に遷座してきました。
《太鼓橋》
一の鳥居の参道をはさんで「四合稲荷」の反対側に「太鼓橋」があります。高い木々に囲まれ、なかなか風情のある場所で、心を休めることができました。「太鼓橋」の奥には、「苗村翁頌徳碑」もありました。
《一の鳥居(東側)》
最後が「一の鳥居」(東側)です。江戸時代はこちらが正式な入口でした。「一の鳥居」(東側)には「御即位記念 寄附 苗村又右衛門」の銘があり、大正4年(1915年)11月の大正天皇即位の礼に合わせて、氏子惣代の「苗村又右衛門」から奉納されたものです。
そして、最後は東側の「一の鳥居」をくぐると「氷川神社」から命名した「氷川坂」に出ます。
01_【「赤坂氷川神社」の一口メモ】
⑴ 所在地…〒107-0052 東京都港区赤坂6丁目10−12 電話 03-3583-1935
⑵ 開門時間…6:00 社務所受付…9:00~17:00 閉門時間…17:30
⑶ 「赤坂氷川神社」の概要
①社号…赤坂氷川神社 ②御祭神…素盞嗚尊、奇稲田姫命、大己貴命
③境内社…四合稲荷神社、九殿社、稲荷神社三社
⑷ 御神徳…厄除 縁結び 家内安全 商売繁昌
⑸ 「赤坂氷川神社」の文化財等
①氷川神社社殿…東京都指定文化財、昭和51年(1976年)7月1日
②奉納絵馬7点…東京都港区指定文化財、平成16年(2004年)10月26碑
③氷川神社の石燈籠四基…東京都港区指定文化財、平成7年(1995年)3月27日
④氷川神社のイチョウ…東京都港区指定文化財、平成6年(1994年)9月27日
⑤祭礼山車行列額絵…東京都港区指定有形文化財、平成11年(1999年)10月12日
⑥旧紀州家 櫓太鼓…東京都港区指定有形文化財歴史資料、平成10年(1998年)4月9日
⑦御祭礼番附留…東京都港区指定有形文化財古記録、平成3年(1991年)10月9日
⑧徳川将軍家朱印状 付目録・条目・写し(7通)…港区指定有形文化財古記録、昭和62年(1987年)10月28日
⑨月岡芳年筆「ま」組火消し絵馬…東京都港区指定有形文化財絵画、平成5年(1993年)9月28日
⑩力石…東京都港区指定有形文化財、平成7年(1995年)3月27日
02_【「赤坂氷川神社」へのアクセス】
⑴ 電車を利用して「赤坂氷川神社」へ
①東京メトロ千代田線「赤坂駅」6番出口から徒歩8分550m
②東京メトロ日比谷線「六本木駅」7番出口から徒歩9分650m
③ 都営大江戸線「六本木駅」7番出口から徒歩9分650m
④ 東京メトロ南北線「六本木一丁目駅」1番出口から徒歩10分650m
⑤ 東京メトロ銀座線「溜池山王駅」12番出口から徒歩10分650m
⑵ バスを利用して「赤坂氷川神社」へ
⑥ 都バス 六本木四丁目
① [渋谷駅前] ⇒[新橋駅前]≪都営バス:都01≫
・バス乗り場:「新橋駅前」(1番のりば)
・7停留所目(「六本木駅前」の次の停留所) 所要時間約18分
・9時から17時の間に1時間平均12便~16便
・「六本木四丁目」停留所で下車し「赤坂氷川神社」まで徒歩7分450m
② [新橋駅前] ⇒[渋谷駅前]≪都営バス:都01≫
・バス乗り場:「新橋駅駅前(東口)」(4番のりば)
・9停留所目(「本木一丁目駅前」の次の停留所) 所要時間約20分
・9時から17時の間に1時間平均12便~16便
・「六本木四丁目」停留所で下車し「赤坂氷川神社」まで徒歩7分450m
03_【「赤坂氷川神社」の見どころ】
⑴ 「社殿」
享保15年(1730年)に八代将軍「徳川吉宗」の命より建立されました。この「社殿」は、「本殿」、「幣殿」、「拝殿」の三つの建物が一体となった、いわゆる権現造りの形式です。当時は幕府による倹約政策が進められていたため、「社殿」には質実かつ簡素な気風が表れています。通常は将軍の寄進するような社寺であれば、軒下の組物を何重にも重ねたり、彫刻や彩色などで飾り立てたりするのですが、この「社殿」の組物は簡素で、彫刻も目立ちません。ただ、将軍の寄進だけあって、大きな「雲形組物」や「吹寄せ垂木」など重厚な意匠を取り入れる工夫もなされています。また全体は朱塗漆としながら、部分的に黒漆塗や黒色金具を用いることで引き締まった印象となっています数多くの戦災・震災を免れ、建立当時の姿を現代に伝えており、昭和51年(1976年) 7月1日に東京都の有形文化財(建築物)に指定されています。
⑵ 「四合稲荷」
「四合稲荷」は、東側にある「一の鳥居」をくぐるとすぐ右手にあります。「四合稲荷」の名前の由来は、明治31年(1898年)に「赤坂氷川神社」の近くにあった「古呂故稲荷」、「地頭稲荷」、「本氷川稲荷」、「玉川稲荷」の4社を合祀したことに由来します。また、「赤坂氷川神社」の周辺には勝海舟の屋敷跡や住んでいた跡があります。そして、「勝海舟」により「四社を合祀」、幸福の「しあわせ」、「志を合わせる」をかけ、「四合稲荷」と命名されました。その後、大正14年(1925年)に「鈴降稲荷」と「縁起稲荷」を合祀し、さらに昭和9年(1934年)に「明徳稲荷」を合祀しています。
⑶ 「西行稲荷」
「四合稲荷」の奥にあるのが「西行稲荷」です。「西行稲荷」は、文政年間の文政8年(1825年)から文政11年の間に調査された「町方書上」のによると、もともとは赤坂田町4丁目にあったようです。町内自身番屋敷地内にあった祠堂で本社は6尺に7尺5寸、拝殿2間4方で前方に3尺に6尺の向拝があったそうです。同5丁目に住んでいた「西行五兵衛」という男が、甲冑を身にまとい、弓矢を携えて狐に乗った姿の鉄の像を拾い、御神体として安置したことが創建の由来と伝えられ、別名「火伏の稲荷」として信仰されてきました。火災除の御神徳があるといわれています。そして、「西行稲荷」は、大正10年(1921年)9月「赤坂氷川神社」境内に遷座してきました。
⑷ 「九神社」
「九神社」は、正面参道の途中の左手にあります。「九神社」は、かつて境内の各所に鎮座していた「天祖神社」、「春日神社」、「鹿島神社」、「八幡神社」、「諏訪神社」、「秋葉神社」、「厳島神社」、「金刀比羅神社」、「塞神社」の9社を合祀した神社です。それぞれの神社への遥拝所として役割がありました。戦前は仲ノ町小学校(現在の赤坂小学校)に鎮座していましたが、戦後に「赤坂氷川神社」の境内に遷座されました。
⑸ 「桶新稲荷」
「桶新稲荷」は「社殿」の左手の「山口稲荷」の先にあります。「稲荷社」の主祭神である「宇迦之御魂」は稲の神で、古来は農業神として信仰をされてきました。時代が下り産業が発展すると、「稲荷神」の神格は諸産業の守護神として拡大しました。江戸時代、江戸市中では稲荷神の勧請が盛んに行われたようです。赤坂5丁目の「桶屋」の稲荷もそのうちの一社で、戦後「赤坂氷川神社」に遷されたと伝えられています。
⑹ 「山口稲荷」
「山口稲荷」は、「社殿」の左手にあります。「山口稲荷」は、終戦後、赤坂3丁目にあった山口邸から遷された神社です。鳥居には享保3年(1718年)銘があり、向かって右側の水盤には文化10年(1813年)、左側の水盤には嘉永4年(1851年)、狛犬の台座には文政8年(1825年)の文字が刻まれていています。これらが奉納された経緯は今となってはわかりませんが、江戸時代を通じて篤い信仰を集めていたことがわかります。
⑺ 「鳥居」
「赤坂氷川神社」の境内には南側の参道と東側の参道にそれぞれ2基ずつ鳥居があります。「一の鳥居」(南側)には「大正十一壬戌年九月」「麻布 芝 氏子中」と記されており、麻布・芝周辺まで信仰が及んでいたことを知ることができます。また、「一の鳥居」(東側)には「御即位記念 寄附 苗村又右衛門」の銘があり、大正4年(1915年)11月の大正天皇即位の礼に合わせて、氏子惣代の「苗村又右衛門」から奉納されたものです。
⑻ 「狛犬」
境内には7対もの「狛犬」があり、「赤坂氷川神社」はまさに狛犬の宝庫と呼ぶことができます。それらの多くが祭礼や式典に合わせて奉納されたものであり、「赤坂氷川神社」が地域内の深い信仰を集めてきたことを物語っています。特に、注目すべき「狛犬」は、楼門両脇の「狛犬」です。現在地に「社殿」が建立されるより前の延宝3年(1675年)6月建立の銘があり、都内神社に現存する石造狛犬の中では最も古いものとされます。ちなみに、都内最古の「狛犬は」は、「目黒不動尊」と呼ばれている「瀧泉寺」の承応3年(1654年)の狛犬とされています。そして、「楼門」手前の手水舎付近にある「狛犬」も年代の古いもので、弘化三年(1846)に奉納された狛犬です。次に、東参道に目をやってみると、東側の「一の鳥居」の参道には、昭和初期、大正、明治と時代を遡るように狛犬が配置されていまます。まず、東側の「一の鳥居」前にある「狛犬」は、昭和12年(1937年)に奉納されたものです。太平洋戦争前の建立された狛犬で、数多くある狛犬の中で一番新しいものです。そして、石段の手前にある「狛犬」は、大正4年(1915年)に奉納されたものです。石段を上がると一対の「獅子山」が見えてきます。この立派な「獅子山」は明治15年(1882年)に奉納されたものです。
⑼ 「石灯籠」
「赤坂氷川神社」の境内には、石製の「台灯籠」が合わせて7対奉納されています。ちなみに、「灯籠」とは文字のとおり灯の籠であり、明かりを灯すことで邪気を祓い、神様のご加護を願うためのものです。置いて用いる「台灯籠」と、吊るして用いる「釣灯籠」に大別されます。「楼門」前に安置されている灯籠は、遷座を担当していた老中「水野忠之」が「社殿」の完成を記念して奉納したものです。ここにある4基の石灯籠は、平成7年(1995年)3月27日に港区の登録有形文化財に指定されています。
⑽ 「大銀杏」
「大銀杏」は、南側にある「一の鳥居」をくぐると右手にある緑地のそびえ立っています。「赤坂氷川神社」の「大銀杏」は推定樹齢400年で、幹の周囲は約7.5mにもなります。「社殿」が現在の地に建立された享保15年(1730年)には、すでに100年を超える樹齢をであったと考えられています。そして、裏から見るとかなりダメージを負っていますが、これは昭和20年(1945年)の東京大空襲によるものです。東京大空襲で幹の大部分を焼損することになりましたが、毎年11月下旬に色鮮やかに黄葉し、見るものに生命力の強さと神秘さを感じさせます。平成6年(1994年)に港区天然記念物に指定されました。ちなみに、「銀杏」は、生きた化石とも言われ、雌雄異株です。「赤坂氷川神社」の「大銀杏」は雄株です。港区内に現存する「銀杏」では最大である善福寺「逆さ銀杏(国指定天然記念物)」に次ぐ大きさです。
⑾ 「包丁塚」
「包丁塚」は、「大銀杏」のある緑地の左手にあります。「包丁塚」とは、料理人の使い古した包丁を納め、その恩恵に感謝するとともに、調理した動物や魚の霊を慰めるものです。境内の「包丁塚」は、赤坂青山料飲組合が使わなくなった包丁を奉納したもので、昭和49年(1974年)11月に赤坂青山料飲組合によって建立されました。傍らの左側には、「包丁塚30周年記念の碑」も建てられています。なお、「包丁塚」の文字は衆議院議員を務めた田中栄一の書を用いています。 現在、毎年10月上旬の土曜日に包丁塚祭が行われています。
⑿ 「天水桶」
「天水桶」とは、防火用に雨水をためておく大きな桶のことをいいます。「赤坂氷川神社」には「中門」前と「四合稲荷」前の2対が奉納されています。「中門」前の「天水桶」は、江戸時代に幕府御用を務めた鋳物師「太田六右衛門(釜六)」が鋳造したものです。戦時中の金属供出を逃れ、都内に現存する「釜六」作品の1つとして大変貴重なものだそうです。
⒀ 「力石」
「力石」は、南側の「一の鳥居」をくぐると左手にあります。この「力石」は、「赤坂氷川神社」境内の土の中から発見されたものです。江戸時代から明治時代まで鍛錬や娯楽として「力石」を用いた力試しが盛んに行われたといわれています。境内の土中から発見された力石には「三拾五貫目」(約130kg)と刻まれています。港区内にある「力石」は、全部で14点になりますが、「力石」のほとんどが海岸沿いの神社に残されているのに対し、この一点だけが海岸から遠く離れていることが興味深い点です。「力石」は、平成7年(1995年)3月27日に港区登録有形民俗文化財に指定されました。
⒁ 「山車展示場」
「社殿」の右手には、「山車展示場」があります。「山車展示場」では、全国的にも貴重な「江戸型山車」を展示しています。「山車展示場」は、以前駐車場だった一画で、駐車場が別に整備され、令和3年(2021年)9月に「山車展示場」が完成しました。展示されている山車は、全国的にも珍しい「三層型」構造で、高さは7mほどあります。山車はかつて「江戸の祭の華」といわれ、江戸から東京の著名な神社の多くの祭礼に曳き出されました。時代とともにその姿を消してゆくことになりましたが、この地域には奇跡的に山車の一部と、山車人形9体が遺されていたそうです。また、江戸一番の祭は「山王日枝」、「神田明神」の天下祭でしたが、最盛期の「赤坂氷川祭」はそれに次ぐ規模だったそうです。「山車」は、徳川将軍も観るので、江戸城内まで挽き回しがされ、その際、城門をくぐすために最上部の人形が上下するカラクリを備えていました。それが江戸型山車の最大の特徴だそうです。ちなみに、右側の「山車」は「猿」で弘化2年(1845年)に制作されたものです。左側の「山車」は「頼義」で弘化三年(1846)に松雲斎徳山によって製作されました。
⒂ 「縁結ひ」
縁結びにまつわる「縁結ひ」は、「楼門」をくぐってすぐ左手にあります。実は、「宮神輿庫」になっていた一画でしたが、「山車庫」が完成したため令和5年(2023年)に再整備して、縁結び祈願の「縁結ひ」となりました。私も勉強不足で知らなかったのですが、日本には願いをしたためた紙を社寺の格子に結い、縁結びを願う風習がありました。「赤坂氷川神社」ではこの風習にちなみ、季節の和紙に願い事を書き、その成就を祈る「縁結ひ」を行っています。季節の色の和紙を結い願い事の成就を祈るそうです。
翻译:我们将发送有关位于港区赤坂六丁目的“赤坂冰川神社”的信息。这次我是在2023年12月27日参拜了赤坂冰川神社。距离赤坂冰川神社最近的车站是东京地铁南北线的六本木一丁目站,但这次我们计划途中参观赤坂冰川神社和因忠臣藏而闻名的南部坂。因此,我乘坐了都营大江户线“六本木站”。从东京地铁日比谷线、都营大江户线六本木站6号出口左转,沿道路行驶约350米,到达道路尽头。沿途左侧就是“桧町公园”。在路的尽头左转,步行约100米,再次到达路的尽头。在那里左转,步行约250米,直到您在左边看到赤坂冰川神社的入口。
「赤坂冰川神社」是位于港区赤坂的「冰川神社」,虽然地处赤坂大都市,却保留着江户时代的痕迹。例如,有刻有江户年号的石碑、灯笼、七对看门狗、历史遗迹等可以感受到江户时代历史的境内遗迹。 。纵观赤坂冰川神社的历史和轮廓,我们发现,赤坂冰川神社的创建年代虽然不详,但它是由游历日本东部的莲林宗城于951年建造的。一天晚上,在现在的赤坂四丁目附近的“一月村”,他收到了梦中供奉的神祇的讯息,于是在这里建造了“冰川明神”的“神社”并供奉着。它。另外,100年后的1066年夏天,关东地区发生了大旱,据说当受苦的村民到冰川明神社祈雨时,立刻就下起了雨。 。江户时代深受第八代将军德川吉宗的崇敬,随后受到德川将军家族的保护。德川吉宗下令建造的神社建筑至今仍存。回顾历史,日本能够幸免于安政大地震、关东大地震、东京大空袭等灾难,可以说是一个奇迹。据说“冰川”这个名字的由来是在出云国的“冰川”(现在的岛根县比井川),而“冰川”的上游据说是据报道,供奉的神“寿神尊”杀死八爪蛇的舞台。
《赤坂冰川神社参拜推荐路线》
①“深石”⇒ ②“大银杏”⇒ ③“高知冢”⇒ ④“九社”⇒ ⑤“山口稻荷”⇒ ⑥“大池新稻荷”⇒
⑦4个“石灯笼”⇒⇒⑧“神社”⇒⑨“圆结”⇒⑩“大师展示馆”⇒⑪“志乡稻荷”⇒⑫“西行稻荷”⇒
⑬“太鼓桥”⇒⑭“苗村冲纪念碑”
现在,让我们走进赤坂冰川神社的境内。赤坂冰川神社在南侧和东侧有两个鸟居。在江户时代,官方路线是从东侧的“一鸟居”进入,但现在似乎更常见的是从南侧的“一鸟居”进入。从赤坂方向过来的话,最靠近东侧的一鸟居,从六本木方向过来的话,最靠近南侧的一鸟居。我乘坐都营大江户线的六本木站,所以穿过南侧的一鸟居。
《力石》
穿过“市鸟居”门后,右侧是“港冰川神社游乐场”,左侧是“力石”。据说从江户时代到明治时代,使用“力石”进行力量测试很流行,用于训练和娱乐。在寺院内的地下发现了一块强大的石头,上面刻有“Sanjugokanme”(约130公斤)的字样。 1995年3月27日,“心石”被指定为港区登录有形民俗文化财产。
《大银杏》与《刀冢》
沿着一鸟居的参道步行,右手边的绿地里会看到一棵大银杏树和一个刀丘。 「赤坂冰川神社」的「大银杏」估计有 400 年树龄,树干周长约 7.5 米。据信,1730 年神社建筑在现址上建立时,这棵树已有 100 多年的树龄。而且当你从背面看时,你会发现它受到了相当大的损坏,但这是由于1945年的东京空袭造成的。 1994年被指定为港区天然纪念物。
“chochozuka”是埋葬厨师用过的刀的地方,以表达对祝福的感谢,并安慰被烹饪的动物和鱼的灵魂。场地内的刀冢专门存放赤坂青山饮食协会不再使用的刀具,由赤坂青山饮食协会于 1974 年 11 月建立。左侧还立有马鸟冢诞生30周年纪念碑。
《九宫》
返回“市鸟居”的参道,再往前走一点,就能看到左侧的“九神社”。这九个神社分别是天宗神社、春日神社、鹿岛神社、八幡神社、诹访神社、秋叶神社、严岛神社,曾经分布在神社境内的各个地方。 ,还有宗神社。它是每个神社的礼拜场所。战前供奉于中野町小学(现赤坂小学),战后移至赤坂冰川神社境内。
《山口稻荷》和《应心稻荷》
沿着三鸟居前的道路向左走,神社建筑的左侧就是山口稻荷和御心稻荷。
“山口稻荷”是战后从赤坂三丁目山口宅邸迁移而来的神社。鸟居门上刻有1718年的铭文,右边的盆上有1813年的铭文,左边的盆上有1851年的铭文,看门狗的底座上刻着文生,上面刻着8年(1825年)。
“御心稻荷”位于“神社”的左侧,紧邻“山口稻荷”。稻荷神社供奉的主神是稻神,自古以来就被当作农业之神来供奉。随着时间的推移和工业的发展,稻荷神逐渐成为各个行业的守护神。在江户时代,江户市内似乎盛行对稻荷神的祈祷。赤坂五丁目“大键屋”的稻荷神社就是其中之一,据说战后被迁至“赤坂冰川神社”。
《4个“石灯笼”》
回到山之鸟居再往前走,在楼门两侧就可以看到1995年3月27日被港区指定为有形文化财产的“长头屋”。四个“石灯笼”。放置在“楼门”门前的灯笼是负责移交的高级议员水野忠之奉献的,以纪念“神社”的竣工。
“神社”
神社建筑于 1730 年奉第八代将军德川吉宗之命建造。这座神社建筑是所谓的权现造风格,由正殿、礼拜堂、礼拜堂三座建筑组合而成。当时幕府奉行节俭的政策,因此神社建筑体现出一种古朴朴素的精神。一般情况下,幕府将军捐献的神社、寺庙的屋檐下都有层层飞檐,并有雕刻和色彩装饰,但这座神社的建筑很简单,没有任何雕刻,不引人注意。然而,由于它是幕府将军捐赠的,因此我们努力融入庄严的设计,例如大型云形组服和吹制的椽子。 1976年7月1日被东京都指定为有形文化财产(建筑物)。
“婚姻”
与婚姻有关的“缘结”位于穿过“楼门”门后的左侧。事实上,该地区原本是“宫神社”,但“现代神社”建成后,于2023年重新开发,成为祈求姻缘的“神轿神社”。在日本,有将写有愿望的纸绑在神社、寺庙的格子上祈求姻缘的习俗。在赤坂冰川神社,根据这一习俗,人们将自己的愿望写在季节性的和纸上,祈求愿望成真。据说,人们会在和纸上绑上季节的颜色来祈祷自己的愿望能够实现。
《大石陈列馆》
神社建筑的右侧是大石陈列馆。 “大石展示馆”展示着具有国家价值的“江户花车”。 「大石展览馆」原本是一个停车场,后来增建了独立停车场,「大石展览馆」于2021年9月竣工。展出的花车采用日本罕见的“三层”结构,高约7米。江户最大的祭典是山王日惠和神田明神的天下祭,但鼎盛时期的赤坂冰川祭是第二大祭典。由于德川幕府将军也会观看节日花车,因此花车被一路推到江户城,并配备了一种技巧,可以让顶部的人偶上下移动,以便通过城堡大门。据说这是江户花车的最大特征。顺便说一下,右边的“高汤”是一只“猴子”,创建于1845年。左边的“高汤”是“赖吉”,由德山祥云斋于 1846 年制作。
《志乡稻荷》
接下来是“志乡稻荷”。穿过“二鸟居”,走下石阶,左边就是“志乡稻荷”和“西行稻荷”。 「志乡稻荷」这个名字来自于「赤坂冰川神社」附近的「小吕稻荷」、「地东稻荷」、「元冰川稻荷」、「玉川稻荷」 ”于1898年。这个名字来源于四家公司被合祀在一起的事实。此外,赤坂冰川神社周围还有胜海舟的宅邸和住宅遗址。胜海舟将其命名为“志乡稻荷”,意思是“将四个神社供奉在一起”、“幸福”和“统一愿望”。后来,1925年,铃折稻荷和远木稻荷合祀,1934年,名德稻荷合祀。
《西行稻荷》
“志乡稻荷”的后面是“西行稻荷”。据1825年至11年间文政时代研究的《町方商事》记载,西行稻荷最初位于赤坂田町四丁目。神社位于町内的榕树院内,总社为六尺×七尺五寸,四面有两间殿堂,前面有一座三尺×六尺的神社。这座建筑的由来据说是居住在五丁目的西行五兵卫捡到一尊身穿铠甲、手持弓箭、骑着狐狸的铁像,并供奉为神社。被视为神圣之物,被称为“火稻荷”而受到崇拜。据说有辟火的神德。 1921年9月,西行稻荷迁移至赤坂冰川神社境内。
《太鼓桥》
穿过第一个鸟居的入口,在志乡稻荷的对面,就是太阁桥。这是一个风景如画的地方,周围都是高大的树木,我可以在那里放松。太鼓桥后面还有苗村冲纪念碑。
《第一鸟居(东侧)》
最后一个是“市鸟居”(东侧)。这是江户时代的正式入口。在“市鸟居”(东侧)上刻有“即位纪念捐赠苗村又右卫门”的铭文。这是由又右卫门奉献的。
最后穿过东侧的“市鸟居”,就到达了因“冰川神社”而得名的“冰川坂”。
01_【“赤坂冰川神社”小记】
⑴ 地址…东京都港区赤坂 6-10-12 107-0052 电话:03-3583-1935
⑵ 开放时间…6:00 神社接待处…9:00-17:00 闭馆时间…17:30
⑶“赤坂冰川神社”概况
① 公司名…赤坂冰川神社 ② 供奉的神灵…铃尊、木田姫命、近江高命
③ 境内神社:志乡稻荷神社、九顿神社、三座稻荷神社
⑷ 神德…辟邪、婚姻、家庭平安、生意兴隆
⑸ “赤坂冰川神社”的文化遗产
① 冰川神社建筑…1976年7月1日被东京都指定文化财产
② 专用牌位 7 块...东京都港区指定文化遗产 2004 年 10 月 26 日纪念碑
③冰川神社的四盏石灯笼……1995年3月27日东京都港区指定文化遗产
④冰川神社的银杏…1994年9月27日东京都港区指定文化遗产
⑤框架花车游行…1999年10月12日东京都港区指定有形文化财产
⑥旧纪州家矢仓太鼓…1998年4月9日东京都港区指定有形文化遗产史料
⑦ 附祭典号码…东京都港区指定有形文化财产旧记录 1991年10月9日
⑧ 德川将军家红印附录、文章、副本(7本)...港区指定物质文化遗产旧记录 1987 年 10 月 28 日
⑨月冈义俊的“麻”组灭火器绘...1993年9月28日被东京都港区指定为有形文化财产的绘画
⑩ 近石...1995年3月27日东京都港区指定有形文化遗产
02_[前往“赤坂冰川神社”]
⑴ 乘坐电车前往“赤坂冰川神社”
① 东京地铁千代田线赤坂站6号出口步行8分钟,550m
②从东京地铁日比谷线六本木站7号出口步行9分钟,650m
③ 都营大江户线六本木站7号出口步行650m 9分钟
④ 东京地铁南北线六本木一丁目站1号出口步行10分钟650m
⑤ 东京Metro银座线溜池山王站12号出口步行10分钟650m
⑵ 乘坐巴士前往“赤坂冰川神社”
⑥ 都营巴士六本木四丁目
①【涩谷站】⇒【新桥站】≪都营巴士:宫古01≫
・巴士站:“新桥站前”(1号巴士站)
・第 7 站(“六本木站前”之后的下一站)大约需要 18 分钟
・9:00 至 17:00 平均每小时 12 至 16 班航班
・在“六本木四丁目”站下车,步行7分钟450m至“赤坂冰川神社”
② [新桥站] ⇒ [涩谷站] <都营巴士:宫古01>
・巴士站:“新桥站站前(东口)”(4号巴士站)
・第 9 站(“本木一丁目站前”之后的下一站)约需 20 分钟
・9:00 至 17:00 平均每小时 12 至 16 班航班
・在“六本木四丁目”站下车,步行7分钟450m至“赤坂冰川神社”
03_【“赤坂冰川神社”看点】
⑴“神社建筑”
它于 1730 年根据第八代将军德川吉宗的命令建造。这座神社建筑是所谓的权现造风格,由正殿、礼拜堂、礼拜堂三座建筑组合而成。当时幕府奉行节俭的政策,因此神社建筑体现出一种古朴朴素的精神。一般情况下,幕府将军捐献的神社、寺庙的屋檐下都有层层飞檐,并有雕刻和色彩装饰,但这座神社的建筑很简单,没有任何雕刻,不引人注意。然而,由于它是幕府将军捐赠的,因此我们努力融入庄严的设计,例如大型云形组服和吹制的椽子。另外,通体涂有朱漆,但局部涂有黑漆,并使用黑色金属配件,给人以强烈的印象。它经历了多次战争和地震,一直流传至今。 1976年7月1日被东京都指定为有形文化财产(建筑物)。
⑵“志乡稻荷”
穿过东侧的“一野鸟居”后,右手边就是“志乡稻荷”。 「志乡稻荷」这个名字来自于「赤坂冰川神社」附近的「小吕稻荷」、「地东稻荷」、「元冰川稻荷」、「玉川稻荷」 ”于 1898 年。这个名字来源于四家公司一起供奉的事实。此外,赤坂冰川神社周围还有胜海舟的宅邸和住宅遗址。胜海舟将其命名为“志乡稻荷”,意思是“将四个神社供奉在一起”、“幸福”和“统一愿望”。后来,1925年,铃折稻荷和远木稻荷合祀,1934年,名德稻荷合祀。
⑶“西行稻荷”
“志乡稻荷”的后面是“西行稻荷”。据1825年至11年间文政时代研究的《町方商事》记载,西行稻荷最初位于赤坂田町四丁目。神社位于町内的榕树院内,总社为六尺×七尺五寸,四面有两间殿堂,前面有一座三尺×六尺的神社。这座建筑的由来据说是居住在五丁目的西行五兵卫捡到一尊身穿铠甲、手持弓箭、骑着狐狸的铁像,并供奉为神社。被视为神圣之物,被称为“火稻荷”而受到崇拜。据说有辟火的神德。 1921年9月,西行稻荷迁移至赤坂冰川神社境内。
⑷《九宫》
“九神社”位于主参道的左侧。这九个神社是天宗神社、春日神社、鹿岛神社、八幡神社、诹访神社、秋叶神社、严岛神社,曾经分布在神社境内的各个地方。这是一个供奉着九个神社的神社:,``琴平神社”、“隋神社”。它是每个神社的礼拜场所。战前供奉于中野町小学(现赤坂小学),战后移至赤坂冰川神社境内。
⑸ “玉新稻荷”
“御心稻荷”位于“神社”的左侧,“山口稻荷”的前方。稻荷神社供奉的主神是稻神,自古以来就被当作农业之神来供奉。随着时间的推移和工业的发展,稻荷神逐渐成为各个行业的守护神。在江户时代,江户市内似乎盛行对稻荷神的祈祷。据说赤坂五丁目“大键屋”的稻荷神社就是其中之一,战后迁至“赤坂冰川神社”。
⑹“山口稻荷”
“山口稻荷”位于“神社”的左侧。 “山口稻荷”是战后从赤坂三丁目山口宅邸迁移而来的神社。鸟居门上刻有1718年的铭文,右边的盆上有1813年的铭文,左边的盆上有1851年的铭文,看门狗的底座上刻着文生,上面刻着8年(1825年)。虽然我们现在不知道这些是如何供奉的,但可以肯定的是,它们在整个江户时代都受到了深深的崇拜。
⑺“鸟居”
赤坂冰川神社境内有两座鸟居,一座位于南参道,另一座位于东参道。在“市鸟居”门(南侧)上刻有“大正十一年九月”和“麻布芝教民”的铭文,表明信仰的延续。前往麻布、芝周边地区。此外,在“市之鸟居”(东侧)上刻有“即位纪念捐赠苗村又右卫门”的铭文,配合1915年11月大正天皇的即位典礼,教区居民Sodai 由苗村又右卫门奉献。
⑻“看门狗”
神社境内有七对守护犬,赤坂冰川神社堪称守护犬的宝库。其中许多是专门用于节日和仪式的,这表明赤坂冰川神社在该地区吸引了深厚的信仰。特别值得关注的护卫犬是塔门两侧的护卫犬。有铭文表明它建于1675年6月,在现在的位置建造“神社建筑”之前,据说它是东京神社中最古老的石制守护犬。顺便说一下,东京最古老的“护法犬”据说是1654年在“泷山寺”建造的护法犬,也被称为“目黑不动尊”。 “楼门”门前的町头屋附近的“看门狗”也是一只古老的狗,于 1846 年供奉。接下来,如果你看一下东侧引道,可以看到昭和初期、大正时代和明治时期在东侧“市鸟居”的引道上放置的守护犬。首先,东侧第一个鸟居门前的守护犬于1937年供奉。这种护卫犬是在太平洋战争之前建立的,是众多护卫犬中最新的一种。石阶前的护卫犬于1915年落成。拾级而上,迎面可见一对“狮子山”。这座辉煌的“狮子山”于1882年落成。
⑼《石灯笼》
赤坂冰川神社境内共有七座供奉神社的石灯笼。顺便说一下,“Toro”的字面意思是一篮子灯,点燃它可以用来驱除邪灵并祈求上帝的保护。大致分为站立用的“傣灯”和悬挂用的“渔灯”。放置在“楼门”门前的灯笼是负责移交的高级议员水野忠之奉献的,以纪念“神社”的竣工。这里的四座石灯笼于1995年3月27日被港区指定为注册有形文化财产。
⑽“大银杏”
穿过南侧的“一野鸟居”后,右侧的绿地里矗立着“大银杏”。 「赤坂冰川神社」的「大银杏」估计有 400 年树龄,树干周长约 7.5 米。据信,1730 年神社建筑在现址上建立时,这棵树已有 100 多年的树龄。当你从背面看它时,你会发现它受到了相当大的损坏,但这是由于 1945 年东京大空袭造成的。东京空袭期间,树干的大部分被烧毁,但每年11月下旬树叶会变成鲜黄色,让观赏者感受到它们的生机和神秘。 1994年被指定为港区天然纪念物。顺便说一句,“银杏”据说是活化石,是雌雄异体的。 「赤坂冰川神社」的「大银杏」是雄性植物。它是港区现存的第二大银杏树,仅次于善福寺倒立银杏树(国家指定天然纪念物)。
⑾“小地冢”
“小地冢”位于“大银杏”所在绿地的左侧。 “chochozuka”是埋葬厨师用过的刀的地方,以表达对祝福的感谢,并安慰被烹饪的动物和鱼的灵魂。场地内的刀冢专门存放赤坂青山饮食协会不再使用的刀具,由赤坂青山饮食协会于 1974 年 11 月建立。左侧还立有马鸟冢诞生30周年纪念碑。 “Bochozuka”的文字是根据众议院议员田中英一的书法创作的。目前,马鸟冢祭于每年十月初的星期六举行。
⑿“天水桶”
雨水桶是储存雨水用于防火目的的大桶。赤坂冰川神社供奉着两对神社:一对位于中门前,一对位于志乡稻荷神社前。中门前的天水桶是由江户时代为幕府工作的铸造大师太田六右卫门(镰丸六)铸造的。据说,它是东京幸存的“镰六”作品之一,在战争期间逃脱了金属捐赠,因此具有极高的价值。
⒀“力石”
穿过南侧的“市鸟居”后,左边就是“力石”。这颗“心石”是在“赤坂冰川神社”境内的土壤中发现的。据说从江户时代到明治时代,使用“力石”进行力量测试很流行,用于训练和娱乐。在院内的地下发现了一块强大的石头,上面刻有“Sanjugokanme”(约130公斤)的字样。港区总共有14座近石,虽然大部分的近石都留在沿海的神社里,但这个却位于远离海岸的地方,这是一个有趣的地方。 1995年3月27日,“心石”被指定为港区登录有形民俗文化财产。
⒁“大石陈列馆”
神社建筑的右侧是大石陈列馆。 “大石展示馆”展示着具有国家价值的“江户花车”。 「大石展览馆」原本是一个停车场,后来增建了独立停车场,「大石展览馆」于2021年9月竣工。展出的花车采用日本罕见的“三层”结构,高约7米。高汤花车曾经被称为“江户祭典之花”,从江户到东京,许多著名神社的祭典中都会用到高汤花车。虽然随着时间的推移消失了,但据说部分花车和九个花车人偶奇迹般地留在了这一带。另外,江户最大的祭典是山王日惠和神田明神的天下祭,而鼎盛时期的赤坂冰川祭则是第二大祭典。由于德川幕府将军也会观看节日花车,因此花车被一路推到江户城,并配备了一种技巧,可以让顶部的人偶上下移动,以便通过城堡大门。据说这是江户花车的最大特征。对了,右边的花车是一只猴子,创作于1845年。左边的“高汤”是“赖吉”,由德山祥云斋于 1846 年制作。
⒂《婚姻》
与婚姻有关的“缘结”位于穿过“楼门”门后的左侧。事实上,该地区原本是“宫神社”,但“现代神社”建成后,于2023年重新开发,成为祈求姻缘的“神轿神社”。我因为没有受过良好的教育所以不知道这一点,但在日本有一种在纸上许愿并将其绑在神社和寺庙的格子上以祈求婚姻的风俗。在赤坂冰川神社,根据这一习俗,人们将自己的愿望写在季节性的和纸上,祈求愿望成真。据说,人们会在和纸上绑上季节的颜色来祈祷自己的愿望能够实现。