点评:彦根城と城下町の建設は、今からおよそ410年前の慶長9年(1604)に始まり、20年近い歳月を経て完成しました。その中心をなしたのが、天守のある本丸です。現在の本丸には天守の建物しか残っていませんが、かつては藩主の御殿である「御広間」や「宝蔵」、そして「着見櫓」なども建っていました。
天守は3階3重、つまり3階建て3重の屋根で構成されています。規模は比較的小ぶりですが、屋根は「切妻破風」「入母屋破風」「唐破風」を多様に配しており、2階と3階には「花頭窓 」、3階には高欄付きの「廻縁」を巡らせるなど外観に重きを置き、変化に富んだ美しい姿を見せています。
その構造は、通し柱を用いないで、各階ごとに積み上げていく方式をとっており、全体として櫓の上に高欄を付けた望楼を乗せる古い形式を残しています。昭和32年から35年にかけて行われた解体修理により、慶長11年(1606)の墨書のある建築材が発見されたことと、その他の史料の情報を総合的に判断して、天守の完成が慶長12年(1607)ころであると推定しています。
また、建築材を克明に調査した結果、もともと5階4重の旧天守を移築したものであることも分かりました。彦根藩主井伊家の歴史を記した『井伊年譜』には、「天守は京極家の大津城の殿守也」とあり、彦根城の天守が大津城(大津市)の天守を移築した可能性が考えられています。
城郭は、戦とともに発達してきたものですが、彦根城は対大阪城という意図で築城されたものの、一度も戦を経験することなく明治時代を迎えます。江戸時代を通して藩主が天守を訪れることは余りなく、天守には歴代藩主の甲冑などが収納されていました。江戸時代の天守は、軍用建築というよりも、城下から見上げる彦根藩の象徴という役割を担っていたようです。
翻译:彦根城和城下町的建设始于大约 410 年前的 1604 年,历时近 20 年才完成。其中心是天守阁所在的本丸。现在,正围城内只剩下天守阁,但过去也曾建造过“大广间”、“宝物”、“筑见矢仓”等领主的宫殿。
天守阁共3层3层,即3层3层屋顶。虽然规模较小,但屋顶的布置形式多样,有“山墙”、“山墙”、“卡拉山墙”等。着重于外观,如围边、显各种美丽的外表。
结构上不采用穿柱式,而是采用层层叠放的方式,整体上保留了角楼之上设有栏杆的瞭望塔的旧式。在1957年至1950年进行的拆除和修复工作中,发现了1606年用黑色墨水书写的建筑材料,估计是1607年(庆长12年)左右。
此外,经过对建筑材料的详细调查,发现原来的五层、四层天守阁已搬迁。根据记载彦根藩主井伊家历史的《井井志》,“天守阁是京极家的大津城”,暗示彦根天守阁的可能性-城是从大津城(大津市)搬迁而来的。
城堡随着战争而发展,但彦根城虽然是为了与大阪城作战而建造的,但进入明治时代却没有经历过一次战斗。江户时代,藩主很少造访天守阁,天守阁内存放着历代藩主的铠甲等物品。江户时代的天守阁与其说是军事建筑,不如说是从城下町看过去的彦根藩的象征。